シンクロニシティ

スピリチュアルを謳ったものが周りに押し寄せて来ている。
それは叔母が置いていった 聖なる予言 という本に端を発する。
それ以前はマヤ暦という生活サイクルを取り入れ、積極的にシンクロニシティを引き起こしていた。
その更に前には姉から貰った 傷付くならば、それは愛ではない という心理学を装った(?)オカルト本を実践していた。

その更に前、愛犬の死をきっかけに死神や悪魔といった西洋的な価値観から悪魔教なるものを知り、陰謀論や植民地支配への嫌悪感が生まれた後、崇拝によって利益を得ようと心掛ける人間達と絶縁するにまで至った。

シンクロニシティの経験は、遡れば5年程前に始まる。
実際のところ、頭の発達していない幼少期には起こること全てがシンクロであっただろう。
あまりに環境に左右されるため、理由付けから知恵を得て、臆病になったからこそ見えにくくなったのだと思う。

シンクロは、感覚が閉じている時にあまり起こるものではない。
例えば、決まった場所、決まった時間、決まった仲間と過ごす生活ではそれに気付き得ない。
独自の判断で行動を選択するからこそ、結果として受け入れることが出来るから、それをシンクロだと感じ得るのだ。

ちなみに、シンクロニシティに善悪は関係無い。
自分が良い状態だからといって、良いものだけを引き寄せるとは限らない。
理由は余裕のある人間には助けを求める者が集まってくるからだ。
そして何がシンクロしているのか分からなくなる。
感覚を解き放ち、望んだものが現れる度「引いた」と感じ続け、シンクロを起こすことが目的になってくると、それはシンクロではなくなる。
直観力の優れた人間なら、どこでどういった行動を取れば望んだ結果を高確率で得られるか分かるのだから、それはシンクロではなく計算である。
計算が始まると成功・失敗が生まれ、結果によって浮き沈みが始まるので、宇宙一体の感覚から切り離されてしまう。
これではシンクロニシティの純粋性が汚れ、コントロールドラマ(と呼ばれるエゴのぶつかり合い)が始まり、争いの引き金にもなり得る。
個人的にシンクロニシティを捉えるなら、もっと偶発的で、互いが喜びを感じられる類のものであり、結果として何かが産まれるもの。
ここに不純な動機が混ざるとプラスの結果はあり得ない。
後にシンクロを装った皺寄せがやってくるのだ。

大事なのは、愛と未知。
未知に対するワクワクが一致してこそのシンクロニシティであり、楽しむとすればその段階で結果ではない。
西洋の文化では、悪魔と血の契約を交わせばほとんどのことが思い通りになるという。
結局信仰する宗教の違いだが、それは同時に業を生む。

タダで願いを聞いてくれる神など居ない。