今を生きる

自分がどうなりたいとか、こうありたいと思うことは結構、立派な心掛け。
が、しかし、後悔とは今を生きていない人だけに音ズレれる訪問者。
死んだ後、高い位に月集ったり、高尚な魂でありたいと望んでのことだとしても、振り返る過去が悲しいものであればそれは嘘となり得るのではないか。
導かれる魂というのは、肉体を持たないが溶け合う性質を持った一体化の世界であるという。
その感覚へと現世の間に辿り着くことが一種の遊びとして持て囃されているが、果たしてそうか。
GAY術の価値として、命あるものが及び得ない地点へ着地することのみ素晴らしい、と誰が教えたのか。
人を救うのは前世の罪か、はたまた昨日の業か。
おそらく自己を殺してまでの奉仕は価値を持たない。
愛するものは世界か人か。
見えないナニカが、今日も一人の世界を守って暮れているのだとして、感謝しますと思える瞬間というのはやはり、望んだものがソコにある時。
無念の内には、天まで昇りつめる陶酔を味わえず呵責された、逃避劇しか生まないのでは?
欲に忠実に生きることでカーマを発生させるのなら、魂の導きと、己の幸せを同時に満たす行動を選択することが、何よりではないか。
自らも幸せであるが、それによって世界も幸せになるという、究極のメンタル。
どちらかに片寄ることさえなければ過ちも業も生まれない、と信じることが現時点で行える最良の選択だと断言できる。