愛の素晴らしさ

被害妄想が強い人間には、相手の些細な行動が自分を否定したり蔑んだりしているように見えるものだ。

その度に自信を失いオロオロしたり反芻したりすることで価値観が揺らぎ、その相手の価値観に合わせたり別の思想に新たな自信を見出したりする。
結果、そのようにフワフワした価値観ではその相手に依存することを余儀無くされ、そういう自分に嫌気がさし破滅に向かったり自己嫌悪を繰り返すサイクルに陥ったりする。
そして、相手が悪魔か何かのように見えてくる。
 
事実、相手が本当に自分を利用しようとしていたとしても、それ自体は一切関係の無いことだ。
ハッキリと絶縁を提示しても良いし、ビジネスや相互メリットがあるのなら関係を継続すればいい。
ただ問題は、関係を継続することで生まれる疑心暗鬼だ。
 
本音と建前に対して理解があり、自分も嘘をつくことに一切抵抗の無い社交的な人間には当てはまらないだろう。
実はそうでないにしても、世界はそういうものだと達観して抵抗する気がない人間にも当てはまらない。
被害者意識の強い人間というのは、強く自分を主張することが出来ず、相手を変えるよりも自分が変わることを選択し、真っ向から向き合う関係性を築けない人達だからだ。
 
何故そういう人間になってしまうかというと、単純に承認欲求が満たされていないからではないか。
自分を捻じ曲げることで承認を得られるし、ひた隠しにした本音は別の何かで発散出来るが、そこに全てのエネルギーを注いでいないために承認を得られず、無意味な感じがして自己否定的な悟りを開く。
光が強くなれば影も濃くなるように、裏表の無い世界というのはそうそう出来上がるものではない。
きっとあらゆる国のあらゆる人間が、そういったコミュニティを作り上げては壊され、伝道者のような人達は依存されることを決して望んでいないような気がする。
 
そんな終わりが無いように思える自分探しの旅に終止符を打てる方法を二つ。
 
一つは前にも述べたように疑心暗鬼の元になる人間と絶縁すること。
これが一番楽で素直。結果が出るのが早いし、前向きになれる。
が、根本的に自信が無いため一時の後悔の念に捕らわれて復縁したり、後々良心の呵責に苛まれたりする。
理由はこちらから突き離す形になってしまうからだ。
 
そのように相手を縛り付けるのが得意な悪魔的(と感じる)人間と互いのメリット残したまま付き合っていく方法が二つ目。

それは愛されること。
厳密に言えば愛することの出来る人間を見つけること。
前述の相手に心を揺さぶられるのは、根本的に自信が無いからであって心酔しているわけではない。
疑心暗鬼に陥っている時というのは、基本的に人を信用出来ないので、騙されるなら騙してやろうと思うか、自分を守るのに精一杯なものだ。

その殻を破り、全ての人間に向けて自分自身をぶつけてみる。
当然それまでのプロセスがあるわけだから、大抵の人間は期待通りの反応を示してくれない。
が、疑心暗鬼に至る前には誰かと本当の信頼関係を築けていたはず。(それを知らなければそもそも人間不信になるはずがない)
その誰かが、必ず応えてくれる。
大事なのは、視野を大きく広げること。
地球上にはたくさんの人間が居て、多様な価値観があり、今までたくさんの人間に出逢ってきたということ。
その全てに扉を開く。
きっと見えてくるはず。本当に大事な人間。愛すべき人が。

相思相愛である必要はない。
ありのままの自分を受け入れる人を愛する、という姿勢を貫けば、人から愛されるべき人間に形を変える。
ようするに、自分の中に一つ大きい芯のようなものが出来て、周りの価値観と己の価値観を切り離して考えることが出来るようになるということ。

愛は素晴らしい。
どんなドラッグや哲学や芸術でも救い出せなかった心を一瞬で解放する。
きっと人が生きていく上で最も必要なもの。

愛。愛。愛。愛。
愛。愛。愛。愛。

愛って素晴らしい。